昭和40年6月8日生まれ(52歳)
ドミニカ共和国 イグエイ出身
日系ドミニカ共和国人の父、小畑秀五郎、日系ベトナム人の母、チョマソンの間に生まれる。
弟、小畑為五郎(49歳)との2人兄弟。
家族4人で貧乏ながらもハイクオリティな生活を送っていたが、4歳の時に、父が「ごぼうで世界を制覇する」と出て行ったきり失踪。そして不幸は続き、6歳の時には母が悪性の水虫で亡くなり、以後弟と二人で暮らすこととなる。
身寄りの無かった常五郎兄弟は、ベトナムにいる母の祖父母の元に引き取られることとなる。しかしながら、資金力が無かったため、兄弟で背泳ぎで太平洋を渡る。
だが途中、フィリピン沖で秀五郎がシロナガスクジラに食われ、消息不明となる。
無事にベトナムに着いた常五郎は、祖父母の家にヘッドスライディングで乗り込み、怒鳴られた。
ベトナムで成長した常五郎は、地元のモリソン小学校へ入学。常五郎の天才ぶりはすざまじく、「美術の授業で完璧な和式便所の彫刻を作り上げる」、「一番後ろの席から先生のメガネの底辺の面積を求める」、「学校中の下駄箱という下駄箱にエビチリを詰め込む」といった伝説を成し遂げた。
中学・高校へ行ってもその勢いは止まらず、「駐輪場転車すべての鍵穴にこしあんを詰める」、「体育館のバスケットリングにごま塩をふりかける」、「夜な夜な友達とひじきの未来について熱く語り合う」、といった伝説を残した。
高校卒業を機に、「もっとも暮らしやすい国はタンザニア」と意味不明なことを言い出し、単身タンザニアに渡る。
しかしながら現地語が分からず、身振り手振りで話している時に、ふいに発した「エビチリ」という言葉が現地民に大ウケ。エビチリの男として名を馳せ、タンザニアにエビチリブームが巻き起こる。この際、常五郎がエビチリTシャツを作成、1万枚を5分で完売。累計30万枚を売り上げ、資産を築く。
資産を築いた常五郎は、「次はジパングを制覇する」と言い残し、タンザニアに別れを告げる。常五郎、21歳の夏であった。
来日した常五郎は手始めに、「ドミニカ音楽と西郷隆盛の融合」をテーマに「劇団常五郎」を立ち上げるも、5日に1人しか客が入らず1か月で倒産。
次に常五郎は「ひきじの社会的地位の向上とそのブランディング化」を志し、「有限会社ひじき総合コンサルティング」を設立。しかしながら、常五郎の求める方向性とひじき農家の方向性が異なり、対立状態となったため、ひじきを仕入れられなくなり半年で倒産。
資産が底を突きそうになった常五郎は、再びエビチリで資産を築くため、タンザニアへ帰還。
ジパングで起業のノウハウを身に付けた常五郎は、「一般社団法人 エビチリの未来」を設立。CEOに就任。そして、現地でマーケティングの天才と名高いボンゴリ石田さんを迎え入れる。過去に人気を博したエビチリTシャツを再販したところ、5万枚を2.7秒で完売。確かなエビチリ需要を認識する。
その後、「エビチリ延長コード」、「エビチリ爪切り」、「エビチリドライヤー」、「エビチリ除湿器」等々のヒット作を連発。勢いに乗った常五郎は、音楽分野へ進出。「THE EBITIRI SOUL」結成。「エビチリのうた」、「エビチリはどこへ行った」、「エビチリほどの夜空は見たことが無い」などのミリオンセラーを連発し、音楽能力の礎を築いた。常五郎のバンドでの役割は「Vo&Ta」※Ta=トライアングル、であった。
数々の功績が認められ、常五郎30歳の時に、タンザニア史上最高のエンターテイナーとして、国民栄誉賞を受賞した。
翌年、ブラジルで「THE EBITIRI SOUL」の公演があり、ブラジルへ上陸。
そこで、生き別れていた弟の為五郎と、中華料理屋のトイレで再会。
為五郎にシロナガスクジラに食われた後の話を聞くと、その後、シロナガスクジラの肛門から排出されたものの、意識不明の状態で、気づいた時にはブラジル湾に漂着していたという。
その後ブラジル湾の水産加工場で働き、30年間ホタテの貝柱を切り取っていたという。
水産加工場では、貝柱の切り取り技術で為五郎の右に出る者はおらず、「貝柱の為五郎」として名を馳せているという。
常五郎が言うに、30年ぶりに会った為五郎は「黒かった」とのこと。
弟との再会を機に、今度は東南アジアを攻めることを決意。タンザニアに別れを告げ、もやしブームを引き起こすべくカンボジアへと向かった。
手始めに東京ドーム4個分の土地を購入し、もやしの栽培を開始。1か月に10トンほどのもやしをコンスタントに出荷し、結果、カンボジアにもやしのデフレが起こる。
続いて「もやしのエンターテイメントへの引き上げ」をコンセプトに、テーマパーク「ユニバーシティもやしランド」を設立。
園内ではもやしを使った数々のデザート(もやしソフトクリーム、もやしクレープ、フレンチトーストinもやし)の提供と共に、もやしアトラクション(①もやしコースター・・ジェットコースターに乗っているともやしの雨が降り注ぐ。②VRもやし・・・大量のもやしがVR映像で迫ってくる。)などの内容で大人気を博した。
ちなみに為五郎は貝柱を来園者に無料で配布するという困難な仕事を成し遂げた。
50歳になったころ、14歳の頃に書いていたギャグ小説を、常五郎宅にひじきステーキをごちそうに来ていた、友人のニクソン田中が発見。
「これは世界を制覇する作品だ」と鼻息をムハムハ言わせながら、いやに興奮気味に語ったのをきっかけに、小畑常五郎万博の設立を決意。
数々の国を制覇してきた常五郎は、「これからはワールドワイドな常五郎を目指す」とポン酢のように言い出し、手始めに20代のころ失敗をした日本市場制覇を目指すのであった。